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演じる男を演じること:『宮松と山下』について

 約1年前、ある映画の撮影にボランティアエキストラとして3日ほど参加した。映画が好きでいろいろ見続けているが「映画の撮影現場ってしっかり見たことないよな、覗いてみたいよな」と唐突に思い立ち、たまたまTwitterで見つけた告知から応募して参加した。現場では、エキストラ参加自体が趣味という人、出演俳優のファン、役者の卵など、いろんな属性の人たちが参加していた。さっきまで一緒にロケ弁を食べたり、「どこからきたんですか」みたいな雑談をしていた人同士が、指定の配置に付いて「ヨーイ」と合図がかかると、フッと見物客になりきって映画の一部と化した瞬間がとてもシュールだったことを覚えている。

 2022年11月18日に公開された映画『宮松と山下』を見た。主人公である宮松(香川照之)は、(ボランティアではない)エキストラ俳優だ。エキストラだけでは食っていけないため、ロープウェイの仕事を掛け持ちしながら、映画やドラマの名もなき端役として出演し続けている。実は宮松は記憶喪失のため過去の記憶が欠落している。そんな宮松の前にかつての同僚だという男(尾美としのり)が現れる…。

 序盤、瓦屋根が立ち並ぶカットが印象的だ。一つ一つの瓦が組み合わさり、大きな屋根が形成されている。その一連のカットで、その瓦屋根は時代劇のセットの一部であることがわかる。その瓦はまるでエキストラによって映画が成り立っていることを示唆しているようで、初っ端からその映像だけで何かを物語ろうとしている。

 近年、けたたましい演技をすっかりものにした香川照之は、『宮松と山下』では2000年代の香川照之を彷彿とさせる演技のトーンに回帰している。なんなら『ゆれる』や『トウキョウソナタ』での香川照之を連想した。しょぼくれたような印象とともに、どこかミステリアスなムードをまとっている。あまり多くを語りすぎないこの映画の温度に合っている。主人公の宮松がエキストラ俳優という設定もあり、本作は、何が虚構か、何が現実かわからない仕掛けが施されており、「これはどっちなんだろ?」と考えながらスクリーンを凝視した。

 演じるということは、主役に限らず台詞がないエキストラでさえも、違う自分になれる。今の自分を一旦遮断することができる。そして、出番が終わると、役から離れて素の自分に戻る。宮松がエキストラを演じ続けているのは、別の自分になりたいという思いをどこかで抱えているからだろう。本作での香川照之は、エキストラとして演じる男を演じており、ある意味、二重の演技をしている。

 人は一面では語れない、わからないということも見えてくる。宮松だけでなく、過去の宮松を知る周囲の人物達も、また多面的だ。宮松は自分でも覚えていない自分の痕跡をたどっていき、自分も知らない自分の過去を知っていく過程が興味深い。スッキリしない後味ではあるが、このスッキリしなさは嫌いではなかった。

黙秘る(だまる):『沈黙のパレード』について

 とある町で女子学生が行方不明となり、数年後に遺体となって発見された。かつて草薙(北村一輝)が担当した別の事件で無罪になった蓮沼(村上淳)が容疑者として浮上。だが、今回も証拠不十分で釈放されてしまう。行き詰まった事件について、内海(柴咲コウ)は湯川(福山雅治)に相談しようとするが、湯川も偶然その町に来ていて…。

 『ガリレオ』シリーズといえば、東野圭吾推理小説シリーズを映像化したプロジェクト。2007年から連続テレビドラマや映画が複数制作されている。一連のシリーズが始動してから約15年経つが、実際の稼働スパンはかなり空いており、今回の映画『沈黙のパレード』は9年ぶりの新作だ。

 テレビドラマ版では、湯川が事件の真相に気づき始めると、ところ構わず数式を書き殴るのがお約束。事件のトリックを科学的に実証しながら、(基本的には)1話完結型の謎解きミステリーとしてテンポよく楽しませる。
 一方、劇場版ではテレビドラマ版のフォーマットとは大きく異なり、抑制されたトーンで撮られており、終始、落ち着いた映像演出によって語られる。湯川が派手に数式を書き殴ることはなく、事件関係者の人物の内面についてガッツリ深く掘り下げられている。湯川が得意とする「理性」や「論理」だけでは通用しない、事件に関係する人々の「感情」や「人情」にぶつかることになる。それだけに1話完結型のテレビドラマ版に比べるとやや渋い後味が残るのが劇場版の特徴だ。

 で、今回の『沈黙のパレード』はどうだったかというと、テレビドラマ版のテイストにかなり寄せているな、というのが率直な印象。テレビドラマ版でおなじみだったサウンドトラックの曲が、本作では複数曲使用されているし、今回のトリックの種明かしの演出は、映画のそれというよりも、わかりやすさを優先したテレビ番組的な演出のように感じられる。よって『容疑者xの献身』『真夏の方程式』のようなトーンの作品を期待すると、肩透かしを食らうことになる。

 今回の事件には、人の思いが複数に折り重なっていて、展開も二転三転するし、やはり「人情」が前面に出てくる。「理」によって事件を解き明かそうとしている湯川が「情」と対峙する。秘密を胸の奥に隠し続けることのキツさ、黙秘を続けることの重さについて問いかける。『容疑者xの献身』『真夏の方程式』での苦い事件を経たことを踏まえると、湯川が今回の事件に向き合うことに深みが出てくる。

 西谷弘監督による手堅い演出は健在で、実在する「あの曲」を何度もリフレインさせる演出は、事件の被害者となった少女・佐織(川床明日香)の存在が町の人にとってどういうものかを語るうえで効果的だった。また、本作の主題歌となっているKOH+の『ヒトツボシ』も、「あの曲」とうっすらリンクしているように聴こえた。

お風呂に入ると思い出してしまう:『LOVE LIFE』について

 1991年10月25日にリリースされた矢野顕子のアルバム『LOVE LIFE』。そのアルバムの最後の10曲目に収録されている曲の名もまた『LOVE LIFE』。そして、さらにこの曲からインスパイアされて深田晃司監督が作った映画のタイトルもこれまた『LOVE LIFE』。そんな映画『LOVE LIFE』を見た。

 妙子(木村文乃)は再婚した夫の二郎(永山絢斗)、前夫との間の息子・敬太(嶋田鉄太)と日々を過ごしている。とある出来事をきっかけに、失踪していた前夫のパク(砂田アトム)が現れるが…。

 この「とある出来事」については、事前の宣伝や予告編等ではフワッと隠されていて、自分は本作を見てこの展開に驚愕することになった。これまでの深田晃司監督の過去作でも不条理な事態は発生していたが、今作も取り返しのつかない事態が起こる。

 

※以下、映画『LOVE LIFE』の内容について含まれています。

 

 妙子の息子である敬太が自宅の浴室内で転倒して亡くなったことを機に、冒頭からたたでさえ不穏だった物語が、まずます影を落としていく。

 浴室は、人が裸になって浴槽に浸かり、心身を休める場所だ。そんな場所で幼い息子が亡くなってしまったものだから、妙子も二郎も自宅のお風呂に入れなくなってしまう。映画の中盤で二人ともそれぞれ浴槽に入るが、当然、亡くなった敬太のことを連想し動揺する。この映画を見た後だと、お風呂に入ると本作を思い出してしまう人は少なくないだろう。

 『LOVE LIFE』の登場人物たちはもともと割り切れなさを抱えていて、相手を気遣う一面もあれば、ひどいことも言ってしまう。ただ、映画を見ている側からすると「それぞれの心情も分からんでもない…」という気にさせられる。この「割り切れなさ」というのは深田晃司監督作品の特徴の一つだ。今回の『LOVE LIFE』においても、人は不確かで様々な側面を持ち合わせている、という当たり前の事実を意外な角度で突きつけられる。

 敬太は何かしらの大会で優勝するほどオセロが強い少年だが、彼の死後、登場人物は白か黒かで決着を着けられない状況に直面していく。自宅で地震に見舞われた妙子が、敬太のオセロの盤を一目散に守ったのは、息子との思い出であること以上に、白黒で決着をつけられるもの(割り切れるもの)にすがりたかった、という思いの発露ではないだろうか。

 本作は「見る/見られる」ことが重要な要素の一つで、誰かの視線を追っているだけでも面白いが、「身体の向き」に着目するともっと面白い。

 例えば、浴室内で妙子とパクが会話をする場面。浴槽に入った妙子のはす向かいに座っているが、途中でパクは妙子の隣に座り直して、妙子と同じ方向を向き、鏡越しに手話で会話しなおす。

 一方、パクが韓国に向かう直前の船着場の場面。二郎の車から降り、パクを追いかけて船に乗り込もうとする妙子。船に向かってグングン進む妙子とバックで運転しながら並走して呼び止めようとする二郎。進んでいる方向自体は同じなのに、身体の向きとしては二人は逆を向いている。このような身体の向きひとつとっても、人と人との関係性の違いが明確に示唆されている。

 木村文乃が演じる妙子は、深田晃司監督の過去作でいうと『歓待』や『ほとりの朔子』における杉野希妃が演じた役柄に近いものを感じた。それは見た目が似ているということではなく、醸し出している雰囲気が似ている。人当たりは良いしキッパリとした物言いもするが、どこか憂いを帯びている。

 本作のポスタービジュアルは、黄色の風船が浮く中、雨に濡れている妙子が立ち尽くしているというものだが、この場面が実際に本編で出てくると、「あ、こういう状況だったんだ…」と驚いた。会場で流れる曲に合わせて、なんとなく身体が揺れて、雨が降ってみんないなくなっても、ゆらゆら踊り続ける妙子。ただ、踊り終わるまで後頭部は映ってもその表情は映らない…。ここだけ切り取ると何のことやらな演出ではあるが、彼女の一連の物語を踏まえると劇中で最も印象深い場面であり、このシチュエーションがポスタービジュアルに採用されたことに納得した。

 そんな『LOVE LIFE』のラストカットは、矢野顕子の同名曲が流れる中、妙子と二郎が自宅の部屋を出て外へ出ていく様をワンカットでとらえている。外に出ると二郎がグラウンドまでテクテク進み、若干遅れて妙子もグラウンドに付いていく。その後は妙子がやや半歩前に進んで歩いていくのに、次郎もそれに付いて歩いていく。どこか二人の今後を暗示するような歩みを見つめながら、この映画は終わる。

 このラストカットは、深田晃司監督の前作『本気のしるし』第5話のとある長回し(こちらも、やはりアパートから外へ飛び出していく)を連想させる。また、『本気のしるし』は「踏切の前の二人」の姿で終わったが、『LOVE LIFE』が「歩き続ける二人」の姿を示して終了したことに、これまでの深田晃司監督作品とは異なる不思議な余韻を感じた。混沌の中にあるわずかばかりの希望のようなものを受け取ったような。

 

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水泳中の思考:『はい、泳げません』について

 自分は「泳げる」か「泳げない」かでいうと、「泳げる」人だ。速くはないけど。休みの日、屋内プールで泳ぐことがある。屋内プールであれば季節問わず営業しているので、寒い2月でも泳ぎに行くことは全然ある。教室ではなく一般レーンで気ままに泳ぐだけだが、水泳は全身を使うので、1時間も経つと身体が心地よく疲れてよい運動になる。泳いでる間は様々なことを考える。いや、自然と考えてしまう。自分が抱える仕事のこと、ニュースで見聞きした話題、遠い昔の恥ずかしい失敗の記憶、「泳いだ後、何を食べるか」というしょうもないこと。いろいろよく考える。

 『はい、泳げません』という映画を見た。『はい、泳げません』とは2022年6月10日に公開された邦画。大学教授・小鳥遊雄司(長谷川博己)は水に顔をつけることもできないほどのカナヅチ。泳げるようになるため水泳コーチ・薄原静香(綾瀬はるか)から指導してもらうことになるのだが…。

 「真面目」過ぎるがゆえに考えすぎる小鳥遊と、泳ぐことに対して「真面目」な静香コーチの二人の掛け合いがまず面白い。特に長谷川博己は『デート~恋とはどんなものかしら~』を彷彿とさせるような、理屈っぽいキャラクターが今回も似合っている。この映画では水泳において危険な行為も登場するが、そこは静香コーチがNGを出して注意したり対応したりしている。

 静香コーチは水泳が人生の主軸にあるような人で、彼女が小鳥遊のメンターとして真摯に水泳を指導していく。彼女の水泳指導も、水泳初心者にとってはわかりやすいものになっている。水泳における呼吸方法をあることに例えたり、泳ぐにあたって人間の身体の特徴を実感が伴う形で指導したりしていて、説明としてはとても飲み込みやすい。彼女が持っている知識や経験を、彼に伝えることによって小鳥遊は変わっていく。

 小鳥遊の「泳げるようになりたい」という思いの根底には、実はある過去が影響していることが映画の中盤で分かる。それは一人で向き合うにはあまりに重いトラウマだ。そんな苦しい過去を「泳げるようになる」ことで、未来へ進んでいくことの意味が重ねられている。少し前の彼には思いもしなかった他者との出会いや、泳法の知識や技術を理解したうえで、少しずつ変わっていく。

 また、水中の世界は、空気中の世界から切り離されていて、内省的になりやすい環境であることが描かれている。この辺りの水泳中の思考は、鴨下教授(小林薫)の説明が腑に落ちた。小鳥遊は水中でもよく考える。泳ぎながら自分の過去や記憶と向き合っていく様は苦しいが、何かを「できなかった」人が、せめてもの思いで「できるようになる」姿は美しかった。

 その他の細かいところを拾っていくと、小鳥遊と静香コーチとの初めての出会いの場面が大袈裟ではなくヌルッと始まるのは個人的には良かった。小鳥遊がスイミングスクールに足を運んだきっかけは、チラシを見て「なんとなく」向かったようにしか見えないのだが、人生で何かが変わるタイミングって意外と「なんとなく」で訪れるのかもしれない。ただ、全体的にカットの切り替わりが不自然で、唐突な演出(特に納豆…)には戸惑うことが多かった。その一方で、とある電話での通話の場面やある動物が登場するカットの意外性や嬉しい驚きもあって、かなり変わった映画だった。

 水泳が他の運動と違う点は「溺れる」というリスクがあること。溺れることへの恐怖もこの映画は描かれているし、それは本当に一瞬なのだということもよくわかるようになっている。だからこそ、事前の準備運動は必須だし、水中で無茶や危険な行為をしないことは大切だ。水泳ってよくよく考えると興味深い行為だよね…と、この映画を見て思いなおした。次に自分が水中を泳ぐときには、『はい、泳げません』のことを考えながら泳ぐことになるだろう。

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ヌルッと始まる受付のシーン。

ifと畏怖:『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』について

<以下、『ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス』『ワンダヴィジョン』のネタバレを含んでいます>

 MCUマーベル・シネマティック・ユニバース)の第28作目の長編映画ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス』は、タイトルに含まれているように「マルチバース」が題材になっている。マルチバースとは多元宇宙論のこと。我々が生きているこの宇宙以外にも、別の宇宙が無数に存在しているという考えのもと、最近のMCUでは別のユニバースの存在が示されている。例えば「スーパーヒーロー達がもしも〇〇だったら…」というアイデアを形にした『ホワット・イフ...?』や、別のユニバースから敵たちが襲来してくる『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』など、マルチバースを扱った作品が増えつつある。

 2022年5月に公開された『ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス』は、元医師で現魔術師のスティーヴン・ストレンジ(ベネディクト・カンバーバッチ)が主人公。『ドクター・ストレンジ』1作目の日本公開が2016年1月で、単独作品としては実に6年ぶりの続編となる。謎の悪霊から追われている少女アメリカ・チャベスソーチー・ゴメス)と遭遇したドクター・ストレンジ。彼女は他の宇宙の間を移動できる特殊能力を持っており、別の宇宙から逃れて来たのだという。アメリカ・チャベスを守るべく、ワンダ(エリザベス・オルセン)に協力を要請するのだが…。

 今回の『ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス』は、前作の監督スコット・デリクソンからバトンを引き継いで、サム・ライミが監督を担当している。『ドクター・ストレンジ』1作目のサイケデリックな作風に比べると、今回はホラーが得意なサム・ライミらしく、不気味でおぞましいビジュアルが堪能できる。例えば、タコのような触手をウネウネくねらせるバカでかい魔物ガルガントスとビルの壁をつたいながら格闘する場面は、サム・ライミ監督作『スパイダーマン2』でのドクター・オクトパスとの街中での対戦を彷彿とさせる。また、ストレンジの魔法陣から謎のクリーチャーの部位がウジャウジャ飛び出す秘技や、ワンダが思いもしないところからギュン!と現れて観客をビビらせる演出も印象的だ。

 アクションシーン全般は、ここ1~2年のMCUフェイズ4の他作品の中でも群を抜いて迫力を感じた。個人的には、ストレンジとアメリカ・チャベスが別の様々なユニバースに迷い込んで一気に横断する場面は気に入っている。二次元のアニメーションまたはペンキだけで構築されているユニバースが映るカットではピクサーのアニメーション映画『インサイド・ヘッド』の一場面を連想した。この世のものとは思えない光景が目まぐるしく登場し、短いながらも奇妙な本作のトーンを象徴する映像だった。

 不可思議な映像体験、従来のMCUにはない演出、突如奏でられる音符バトル♪など、見どころは多く楽しんだが、本作のストーリーに引っ掛かりを覚えるところがあった。

 今回、ストレンジが立ち向かう敵は『アベンジャーズ:インフィニティ・ウォー』『アベンジャーズ:エンドゲーム』で共にサノス(ジョシュ・ブローリン)と戦ったワンダ。『ワンダヴィジョン』でヴィジョン(ポール・ベタニー)の喪失により、途方に暮れていたワンダは町の住民達を支配し、ヴィジョンとの結婚生活を無理やり具現化する騒動を引き起こす。『ワンダヴィジョン』最終話にて、ワンダの暴走は一旦は解決したはずだったが、その後、ダークホールドという黒魔術の書に傾倒していたことが本作で判明し、再び暴走。ワンダは、ありえたかもしないifの理想の世界を実現するため、アメリカ・チャベスの能力を悪用してマルチバースを掌握しようとする。本作は『ドクターストレンジ』の2作目であると同時に『ワンダヴィジョン』の後日談も兼ねているのだ。

 『インフィニティ・ウォー』でストレンジがサノスにタイムストーンを渡したことが、ヴィジョン消滅の遠因になったという経緯が改めて語られ、ストレンジとワンダの対立にもドラマが生まれてくるはずが、肝心のヴィジョンのイメージは全く登場せず、あくまで子供たちについてのみ執着しているように見えて違和感を感じた。ワンダが殺戮と破壊を容赦なく繰り返す姿には畏怖の念を抱いた。『ワンダヴィジョン』でもワンダの喪失感は深く描かれていただけに、今回の『マルチバース・オブ・マッドネス』でのワンダの変わり果てた姿、最終的に彼女が迎えた結末は非常に後味が悪いものになっている。

 また、本作では謎の組織「イルミナティ」の面々がサプライズ的に登場する。意外なヒーローらの登場に驚いたのも束の間、イルミナティのメンバーのほとんどがワンダの手によって無残に退場してしまったのはなかなかショッキングだった。特に『X-MEN』シリーズのチャールズ・エクゼビア(パトリック・スチュワート)がMCUに登場したことは、本来は画期的な出来事のはずだが、ファンサービスのための「サプライズ」と、ワンダがいかに強力か裏付けるための「作劇上の都合」が嚙み合うわけもなく、こちらもやはり後味が悪い。

 おそらく今後のMCUでは、しばしばマルチバースが登場する機会が増えてくるだろう。MCUの世界観が拡張されていくこと自体は楽しみだが、本作で感じた後味の悪さから、これからも続くMCUの未来について「何でもアリになってしまって、収拾がつかなくなってしまうのでは…」という危惧を若干抱いた。このifが見当違いであることを願うのだけど。

ok5ok7.hatenablog.jp

正月とバレンタインの狭間で:ダウ90000『ずっと正月』について

 ここ数ヶ月、ダウ90000にハマっている。ダウ90000とは何か。2020年に旗揚げされた男女8人からなるユニットだ。劇団っちゃ劇団かもしれないが、演劇だけでなくコントや漫才もやる。色々をやる。何といってよいかわからないが、既存の枠組みにとらわれない不思議なグループだ。そのうちのメンバー5名は先日のM-1グランプリ2021に出場し、準々決勝まで進出した。自分がダウ90000を知ったタイミングは、M-1の3回戦での漫才の動画(※現在は配信終了)を見たときで、それがハチャメチャに面白かった。彼らの漫才やコントや芝居は、多人数で展開され、用いられる言葉のセンスが面白く、非常にテンポが速い構成なのが特徴だ。それ以来、YouTubeで配信されている他のネタ動画を見るようになった。

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 そんなダウ90000の第3回本公演『ずっと正月』が先日、新宿シアタートップスにて上演された。全公演終了後、映像配信が始まったので、さっそく視聴した(2022年3月6日まで配信中とのこと)。これも非常に面白かった。

 舞台は、夜のショッピングモールのショーケース。ショーケースにはお正月らしく、門松、鏡餅、コタツ、富士山の日の出のイラストに「SALE」と記されたポスターが並んでいる。正月もとっくに終わり、バレンタイン商戦に向けて、ショーケースの中で正月用からバレンタイン用に装飾を取り替えようとしているショップ店員たち。そして、このショーケースの前で待ち合わせをする若者たち。このショーケースの内と外で、それぞれの人間模様が展開し、意外な事実が判明する。

 まず、ショーケースを舞台に100分の演劇に仕立てたことがすごい。「ケースの中」と「外」で、大きく2つのレイヤーに分かれるのだが、割と早い段階で誰かがショーケースの内外を行き来し始める。いろんな人物が出入りを繰り返しているうちに、開演から約40分以上経つと、冒頭からは想像もつかないビジュアルや話題がショーケースで繰り広げられている。一夜の混乱と多幸感を可視化したような装飾やアイテムの使い方にも笑わせられて、心の底から楽しかった。

 ショーケースは人のイメージを具現化する空間であり、飾り付けをする者のセンスが試される空間でもある。人のセンスが問われる場所で、特に ある登場人物は自分をさらけ出すことになる。何かを言葉にすることの面白さ、言葉にしてしまうことの切なさ、そして(良い意味での)しょうもなさが、重箱に入ったおせち料理くらいにギュウギュウに詰め込まれていた。主宰で演出と脚本を担当し、自身も出演している蓮見翔は人間のツボみたいなものをガッチリ抑えている。抑えすぎていてちょっと怖いくらいだ。

 もうひとつ細かいところでいうと、普段のネタでは、バカっぽい役回りを引き受けている園田祥太が、今回は比較的 常識人の店長を好演していたのが新鮮に感じた。彼が発する「季節って巡るんだぜ?」「当分、四季折々あるよ日本は」という台詞は当たり前のことを言っているだけなのに、とても笑ってしまった。

 日常のふとしたことや感情のかけらのようなものが、独特なフレーズや実在するカルチャーに例えられることで、舞台上に立ち上がってくる。彼らが話している台詞はとても自然体で、不思議と親密なものを感じてしまう。『ずっと正月』に限ったことではないが、ダウ90000の他の作品にも言えることとして、2013年に放送された坂元裕二脚本のドラマ『最高の離婚』を初めて見たときの衝撃に近いような、そんな手触りをずっと感じている。

 自分は関東在住ではないため、遠征して観劇することが今は難しいが、いつかこの人たちのライブを生で見れたらなと思う。

子供から大人へ:『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』について

 マーベル・シネマティック・ユニバースMCU)の27作目の映画『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』を見た。MCUでのジョン・ワッツ監督による『スパイダーマンシリーズとしては3作目。MCUでのスパイダーマンは、既にスーパーヒーロー達が存在している世界で途中から登場した。他のヒーロー達と比較すると、10代の少年であるスパイダーマンの若さや未熟さがより際立って見えるのが特徴的だ。

 前作『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』では、敵にスパイダーマンの正体を暴かれる衝撃的な結末で幕を閉じた。今回の『ノー・ウェイ・ホーム』では正体暴露の直後からスタートし、世間の注目を一気に集めてしまう。周囲の大切な人達にまで影響が及ぶことに責任を感じたピーター・パーカー(トム・ホランドドクター・ストレンジベネディクト・カンバーバッチに相談。ストレンジは「スパイダーマン=ピーター・パーカー」だと知る者の記憶を消し去る魔術を実行するが、ピーターが仕様変更をコロコロ追加オーダーしたことで失敗。それにより、別の次元かスパイダーマンを知るヴィラン達がやってくる…。

 

<以下、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』のネタバレを含んでいます>

 

 今作でやはり面白かったのは、サム・ライミが監督した『スパイダーマン』3作品とマーク・ウェブが監督した『アメイジングスパイダーマン』2作品から、作品の垣根を超えて、それぞれキャラクターがやってくることだ。例えば、5人のヴィラン達が地下牢で言葉を交わす場面は非常にシュールだ。ライミ版・ウェブ版のスパイダーマンが手こずった敵たちが情報交換している光景は、本来ならあり得ない奇妙な状況で、不穏さと可笑しさを同時に感じた。また、3人のピーター・パーカーが合間合間に雑談していたのもよかった。「先輩んトコはそんな感じなんすね」「え、あるあるじゃないの!?」みたいな。3人のスパイダーマンの集合は事前に噂されていたとはいえ、実際その光景を見ていると、信じられないような気持ちにも、どこかホッとしたような不思議な気分にもなった。
 MCU内の個々のキャラクター達が集合したり、分裂したりするのMCUの醍醐味の一つだが、今回はMCUとは全く別の文脈で作られた『スパイダーマン』実写作品のキャラクターが合流する。単なるお祭り集合映画ではなく、別々の世界から別のスパイダーマンヴィラン達が集まったことの意味を本作から感じられるし、ライミ版・ウェブ版へのリスペクトを感じた。

 例えば、ライミ版『スパイダーマン』でオズボーン親子の死を、ウィブ版『アメイジングスパイダーマン2』でグウェンの死を経験したそれぞれのピーター・パーカーの今作での人を「救う」行動にはグッときた。また、歴代ヴィラン達を単に打ち負かすのではなく、一人一人に適切なケアを提供して「救う」ことによって事態の解決を図るのに感心した。過去の作品に対して「こういう可能性もあり得たかも」とまた違った見方をもたらしてくれている。

 監督のジョン・ワッツの持ち味である「子供相手でも容赦ない大人の怖さ」は、今回はウィレム・デフォーが特に体現していた。ライミ版でのマスクを早々に脱ぎ捨て、ウィレム・デフォー自身の演技や表情によって、ノーマン・オズボーンの二面性を表現していて、「やっぱり、この人おっかないな…」と思わせられた。流石だ。

 最終的にピーターは事態収束の代償として、ピーター・パーカーの存在を知る全員の記憶を消し去ることを了承し、誰も知らない世界で孤独に生きることを選択する。ここで未熟な少年の成長を描いたMCUの『スパイダーマン』は一区切りついたと感じた。自前のお手製スーツで街に繰り出すが、もうトニーもメイおばさんもいない。MJやネッド、ハッピーは自分のことを全く覚えていない。頼れる人が誰もいなくなった世界で、知らない誰かを「救う」ために外に出るピーターには少年のような幼さはなく、子供から大人へ成長した。そう思えた。

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 そういえば、サンクタムで除雪作業してた男女って誰だったんだろうね。短期バイト?