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視野のズレ:『怪物』について

<以下、『怪物』のネタバレを含んでいます>

 大きな湖のある郊外の町。麦野早織(安藤サクラ)はシングルマザーとして、小学生の息子・湊(黒川想矢)を育てている。最近の湊の挙動不審な様子や怪我を心配した早織は、湊に問いただす。すると、湊は担任教師の保利(永山瑛太)から体罰を受けた、と話し…。

 先日、第76回カンヌ国際映画祭での受賞後の凱旋記者会見にて、『怪物』の脚本を手がけた坂元裕二がとある実体験を語っていた。

「車を運転中、赤信号で待っていました。前にトラックが止まっていて、青になったんですが、そのトラックがなかなか動き出さない。よそ見をしているのかなと思って、クラクションを鳴らしたけど、それでもトラックが動かなかった。ようやく動き出した後に、横断歩道に車いすの方がいて、トラックはその車いすの方が渡りきるのを待っていたんですが、トラックの後ろにいた私には見えなかった。それ以来自分がクラクションを鳴らしてしまったことを後悔し続けていて、世の中には普段生活していて、見えないことがある。私自身、自分が被害者だと思うことにはとても敏感ですが、自分が加害者だと気づくことはとても難しい。それをどうすれば加害者が被害者に対して、していることを気づくことができるだろうか。そのことを常に10年あまり考え続けてきて、その1つの描き方として、3つの視点で描くこの方法を選びました」

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 これは坂元裕二の作家性を象徴するエピソードだ。例えば、連続ドラマ『それでも、生きてゆく』では、殺人事件の加害者家族と被害者家族のそれぞれにしか分からない苦しみを描いていたし、『最高の離婚』では(加害/被害とは違うが)夫婦生活を送る二人の感覚のズレやすれ違い、衝突を描いている。その人に見えている視界、他の人からは見えない視界というものがあり、そのズレから生まれる感情や葛藤を坂元裕二はこれまでも物語に込めている。

 今回、坂元裕二是枝裕和監督が組んだ『怪物』では、複数の視点のズレによって物語が描かれる。本作の舞台となる町に湖がある。湖北から湖を望む景色と湖南から湖を望む景色は違う。人によって視座や世界の見え方が異なること、先入観や断片的な情報だけで物事を判断してしまうことが、そこはかとなく示唆されている。

 学校内で問題が起きた際に、根本的要因や事実を正確に究明しないまま、学校を存続させるために事態を鎮火させようとする教員。劇中の教員らの対応は極端かつ滑稽に思えるが、現実の世の中の様々な問題に置き換えてみると笑うに笑えない。この町で起きることは、他のどこかでも起き得ることだ。

 また、テレビのドッキリ番組を見て「騙されないよ」と言っていた早織が、実態とは異なる「推察」が事実だと信じこみ、グイグイ突き進んでいく。担任教師の保利も、自分が児童の問題の実態を見誤っていたどころか、事実と異なる出来事について謝罪を余儀なくされる。校長の伏見(田中裕子)は、亡くなった孫との写真を早織の視界に入るように置き、同情を誘うことでダメージを和らげようとする。孫の死すら利用してしまう底知れなさが恐ろしいが、伏見は学校を守るために「決めた」人なのだ。

 大人たちの混乱とは別に、本作の核心は湊(黒川想矢)と依里(柊木陽太)が抱える葛藤や感情にある。人には簡単に言えない思いや戸惑い、傷ついたものについて二人は共鳴する。二人は自分の家族のことをどう捉えているか。湊は、母親から「男らしく、亡き父親のように」と願い(に見える呪い)をかけられているが、そんな父親が不倫していた(かもしれない)ことを知っていて、余計につらい気持ちを抱いていたのではないだろうか。依里も父親(中村獅童)から虐待を受けており、学校ではいじめを受けている。湊もいじめの加害側の同調圧力に屈してしまう。

 最終的に彼らが抱える問題は何ら解決しておらず、台風が過ぎ去った後、この二人が晴れやかな山の上で駆ける場面で映画はラストを迎える。絶望がゴロゴロ転がっている世界から切り離された場所で、ここだけは何にも縛られないでいたい、という二人の祈りを感じた。ただ、一つ不満点を挙げるとしたら、最後に再び早織や保利の視点に立ち返って見たかった。

 劇中でたびたび登場する「怪物、だーれだ?」という問いかけは、本作のキャッチコピーにもなっている。動物の絵を自分のおでこに掲げ、お互い質問し合うことで、その正体を当てる「インディアンポーカー」のようなゲームだ。この映画自体、ある意味このゲームのようなもので、「あなたから見て、こちらの姿はどのように見えていますか?」と問いかけ、思考を促している。他者との対話を重ねて探っていくこと、それが視野のズレを埋めることになるはずだ。

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