視野のズレ:『怪物』について
<以下、『怪物』のネタバレを含んでいます>
大きな湖のある郊外の町。麦野早織(安藤サクラ)はシングルマザーとして、小学生の息子・湊(黒川想矢)を育てている。最近の湊の挙動不審な様子や怪我を心配した早織は、湊に問いただす。すると、湊は担任教師の保利(永山瑛太)から体罰を受けた、と話し…。
先日、第76回カンヌ国際映画祭での受賞後の凱旋記者会見にて、『怪物』の脚本を手がけた坂元裕二がとある実体験を語っていた。
「車を運転中、赤信号で待っていました。前にトラックが止まっていて、青になったんですが、そのトラックがなかなか動き出さない。よそ見をしているのかなと思って、クラクションを鳴らしたけど、それでもトラックが動かなかった。ようやく動き出した後に、横断歩道に車いすの方がいて、トラックはその車いすの方が渡りきるのを待っていたんですが、トラックの後ろにいた私には見えなかった。それ以来自分がクラクションを鳴らしてしまったことを後悔し続けていて、世の中には普段生活していて、見えないことがある。私自身、自分が被害者だと思うことにはとても敏感ですが、自分が加害者だと気づくことはとても難しい。それをどうすれば加害者が被害者に対して、していることを気づくことができるだろうか。そのことを常に10年あまり考え続けてきて、その1つの描き方として、3つの視点で描くこの方法を選びました」
これは坂元裕二の作家性を象徴するエピソードだ。例えば、連続ドラマ『それでも、生きてゆく』では、殺人事件の加害者家族と被害者家族のそれぞれにしか分からない苦しみを描いていたし、『最高の離婚』では(加害/被害とは違うが)夫婦生活を送る二人の感覚のズレやすれ違い、衝突を描いている。その人に見えている視界、他の人からは見えない視界というものがあり、そのズレから生まれる感情や葛藤を坂元裕二はこれまでも物語に込めている。
今回、坂元裕二と是枝裕和監督が組んだ『怪物』では、複数の視点のズレによって物語が描かれる。本作の舞台となる町に湖がある。湖北から湖を望む景色と湖南から湖を望む景色は違う。人によって視座や世界の見え方が異なること、先入観や断片的な情報だけで物事を判断してしまうことが、そこはかとなく示唆されている。
学校内で問題が起きた際に、根本的要因や事実を正確に究明しないまま、学校を存続させるために事態を鎮火させようとする教員。劇中の教員らの対応は極端かつ滑稽に思えるが、現実の世の中の様々な問題に置き換えてみると笑うに笑えない。この町で起きることは、他のどこかでも起き得ることだ。
また、テレビのドッキリ番組を見て「騙されないよ」と言っていた早織が、実態とは異なる「推察」が事実だと信じこみ、グイグイ突き進んでいく。担任教師の保利も、自分が児童の問題の実態を見誤っていたどころか、事実と異なる出来事について謝罪を余儀なくされる。校長の伏見(田中裕子)は、亡くなった孫との写真を早織の視界に入るように置き、同情を誘うことでダメージを和らげようとする。孫の死すら利用してしまう底知れなさが恐ろしいが、伏見は学校を守るために「決めた」人なのだ。
大人たちの混乱とは別に、本作の核心は湊(黒川想矢)と依里(柊木陽太)が抱える葛藤や感情にある。人には簡単に言えない思いや戸惑い、傷ついたものについて二人は共鳴する。二人は自分の家族のことをどう捉えているか。湊は、母親から「男らしく、亡き父親のように」と願い(に見える呪い)をかけられているが、そんな父親が不倫していた(かもしれない)ことを知っていて、余計につらい気持ちを抱いていたのではないだろうか。依里も父親(中村獅童)から虐待を受けており、学校ではいじめを受けている。湊もいじめの加害側の同調圧力に屈してしまう。
最終的に彼らが抱える問題は何ら解決しておらず、台風が過ぎ去った後、この二人が晴れやかな山の上で駆ける場面で映画はラストを迎える。絶望がゴロゴロ転がっている世界から切り離された場所で、ここだけは何にも縛られないでいたい、という二人の祈りを感じた。ただ、一つ不満点を挙げるとしたら、最後に再び早織や保利の視点に立ち返って見たかった。
劇中でたびたび登場する「怪物、だーれだ?」という問いかけは、本作のキャッチコピーにもなっている。動物の絵を自分のおでこに掲げ、お互い質問し合うことで、その正体を当てる「インディアンポーカー」のようなゲームだ。この映画自体、ある意味このゲームのようなもので、「あなたから見て、こちらの姿はどのように見えていますか?」と問いかけ、思考を促している。他者との対話を重ねて探っていくこと、それが視野のズレを埋めることになるはずだ。
言葉の鮮度:ダウ90000『また点滅に戻るだけ』について
以前、ダウ90000の『ずっと正月』の感想で、「いつかこの人たちのライブを生で見れたらな」と書いたことがある。
その後も、ダウ90000のライブや公演は配信で追いかけていて、2023年5月21日、本多劇場にて第5回演劇公演『また点滅に戻るだけ』を運よく最前列で観劇する機会に恵まれた。これまで画面越しで見ていた8人の姿を初めて生で見ることができた。
5月のゴールデンウイーク。ゲームセンター「サーカス」に、20代になった高校の同級生たちが久々に足を運ぶ。駄弁っていると、芸能活動をしているミオ(中島 百依子)の過去のプリクラが週刊誌に掲載された話題へ。一体、誰がプリクラを流出させたのか…?
プリクラ、ガチャガチャ、メダルゲームが並ぶゲームセンターが今回の舞台だ。ゲーセンって、まぶしくて、ずっと何かしら点滅している。ああ、そっか。『また点滅に戻るだけ』の「点滅」ってゲーセンのことか、と公演のタイトルに納得。舞台設計は2階建てで、横だけでなく、上下の縦移動もあり、空間が広く使われている。ゲームセンターというワンシチュエーションでの8人の会話によって、過去の思い出話が混ぜこぜになりつつ、話が展開する。
また、8人の会話の中だけで出てくる人々の存在が面白い。前に住んでいた部屋の隣人。飯踏(忽那 文香)が仲良くしているミオのお母さん。カワサキ先輩、ユリカ先輩をはじめとする、いくらなんでも人物相関図がややこしすぎる高校時代の先輩。その場にはいないのに、彼らの会話の中から立ち上がってくる人の存在までもが面白い。
劇中では、聞いたことのない表現や例えツッコミが飛び交う。プリクラ流出の謎解きとは別に、今回の話の軸は「言葉選び」や「センス」にあることが浮かび上がってくる。
日々の生活とは何かを受け渡したり受け取ったりするのを繰り返していくことなのだと、個人的に最近よく思う。個性が立っている言葉を相手に投げかけて、それで盛り上がったりとか。前に付き合っていた人の口癖とか、好きな人が用いていたフレーズが自分の中に蓄積されて、また別の誰かに渡っていったりとか。相手に渡した自覚がなくても、知らず知らずのうちに相手の手元に行き渡っていることもあるし。そういうことの繰り返しなのかなって。その繰り返しの中で、自分らしい言葉やセンスも磨かれていくんじゃないか、って。
ダウ90000の蓮見翔という人は、言葉の鮮度を本当に大事にしている。他の作家の「手垢」がつく前に、鮮度が落ちないうちに、いま面白いものや言葉を世に出したいというモチベーションを感じ取った。これからのダウ90000から発信される言葉や表現を、これからも受け取りたい。
【配信開始】
— ダウ90000 (@daw90000) 2023年5月22日
ダウ90000第5回演劇公演
「また点滅に戻るだけ」
収録映像の配信が開始されました。
視聴期限
5/22(月)19:00〜6/30(金)23:59https://t.co/zyFBkcg9Qs
この機会にぜひ! pic.twitter.com/XHQcwNHxVD
この宇宙の片隅で:『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』について
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』1作目のパンフレットを読み返した。製作のケヴィン・ファイギが「『アイアンマン』の第1作以来、最もリスキーな作品だと個人的に思います」と語っていた。もう今となっては思い出しにくいが、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の存在は2014年の映画公開前は無名に近かった。作り手側は無名に近いキャラクターらを映画化するリスクを背負い、映画制作に挑戦していた。
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』1作目はMCUの中でも屈指の名作だ。宇宙規模の冒険活劇やスケール感を提示できたこと、マイナーで珍妙なキャラクター達が主役であっても大作として成立できたことが、その後のマーベル・スタジオの自信に繋がっていったのではないか、とさえ思っている。そんな『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズ3部作が今回、完結した。
<以下、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』のネタバレを含んでいます>
ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの本部に、金色の超人アダム・ウォーロック(ウィル・ポールター)が奇襲し、ロケット(ブラッドリー・クーパー)が瀕死の重傷を負う。ロケット治療の手掛かりは、ロケット誕生に関係している企業オルゴスコープ社の中にあることが判明。それを知ったスターロード(クリス・プラット)らはオルゴスコープ社に潜入するが…。
自分はガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの一員であるロケットが、キャラクターとして好きだ。そのアライグマの見た目とは裏腹に毒舌家で、知能が高くメカに強い。ただ、強いだけではなく、どこか悲壮感や寂しさが漂っており、そのギャップに親近感を感じていた。
今回の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』では、ガーディアンズの行動の目的が「死の淵にいる仲間(ロケット)を救うため」というストレートなものであり、ロケットが本作の中心に位置づけられている。ロケットは遺伝子改造によって生み出された…という設定だが、実際にはどのような経緯だったのか、壮絶な過去のエピソードが容赦なく描かれる。個人的にロケットに思い入れが強いこともあり、見るのもなかなかつらかった。
そして、ロケットを生み出した張本人のハイ・エボリューショナリー(チュクーディ・イウジ)が、まあ憎たらしい。「完璧」を目指すあまり、むごい生物実験や改造を繰り返すヴィランで、「コ、コイツは絶対止めないと…」と決意させるほど、ムカつく言動の数々を繰り返す。演じるチュクーディ・イウジは、ジェームズ・ガンが出がけるDCのドラマシリーズ『ピースメイカー』でも不穏な役柄に徹していたが、あれ以上の狂気を本作で見ることができた。歪んだ理想を目指すハイ・エボリューショナリーにガーディアンズ・オブ・ギャラクシーが真っ向から対決することで、「完璧な存在などないし、それぞれ長所も短所もあるからこそ生命体は補い合う」というテーマに結実していく。
また、本作のある場面で、マンティス(ポム・クレメンティフ)がネビュラ(カレン・ギラン)との口論の中で語ったことも、ありのままを否定しないテーマ性に合致していてとても良かった。マンティスは2作目の初登場時こそインパクトが強烈だったが、いまやマンティスはチームに馴染んでいるし、このチームのことを深く理解しているんだよな…と、彼女の成長を垣間見れた気がした。
インパクトといえば、本作で登場した新キャラクターのアダム・ウォーロック。ノーウェアでの奇襲時、急にバコーン!とぶち破ってくるあの速さにビビるし、ガーディアンズの面々を容赦なくボコボコにする。ブレーキがないのか君は。終盤では、そんなアダムがガーディアンズオブギャラクシー達の行動や姿から、何かを学び取っていく。まだまだ彼は語りがいのあるキャラクターだろうし、今回のアダムの登場はジェームズ・ガンからMCUへの置き土産のように思える。
終盤で明示される、スターロードとガモーラの関係性の潔い終止符や、ガーディアンズのメンバーのその後の道筋には納得した。メンバーは各所へ散り散りになったが、この広大な宇宙でそれぞれの人生を過ごしたり、やるべきことをやったり、音楽とともに踊り散らかしたりするのだと考えると『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズとして素敵な帰着だと感じた。
エンドクレジット後のワンシーンとして添えられた、地球でのクイル家の平凡な一コマ(芝刈り機云々…)。一見しょうもない場面ではあるが、宇宙のトレジャー・ハンターとして生きてきたスターロードにとっては、今まで経験すらできなかった貴重な「平凡な日々」を過ごしているわけで。今回の3作目はロケットが中心にいるものの、やはりシリーズ1作目が母親を失ったピーター・クイルの幼少期の場面から始まっているため、最後の最後は、この宇宙の片隅で彼が穏やかに過ごす場面で終わることに納得。肩の力を抜いてフッと笑えて終わるバランスが『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』らしい。
ちなみに、アダムがロケットを襲撃する場面では、ネビュラが真っ先に駆けつけた。突然の事態にも関わらず、ネビュラの初動が早い点に、サノスの指パッチン後の5年間を過ごした同士の絆を感じた。また、ネビュラの武器装備が後期のアイアンマンっぽくて、ネビュラが一緒に宇宙を漂って過ごしたトニー・スターク(ロバート・ダウニー・Jr)の影響を受けているのでは…と思わずにいられなかった。MCUはこういう風に過去作の文脈を重ねるのがうまい。
嵐を呼ぶ:『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』について
2020年以降、ここではない別の世界線を考えることが増えた。「新型コロナウイルス感染症がない世界はどんな風になっていたのか?」と。そんなこと考えたって仕方がないのだが、考えたくもなる。
『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』はマルチバース(多元宇宙)を題材とした映画だ。コインランドリーを経営する、中国系アメリカ人のエブリン(ミシェル・ヨー)。確定申告のために国税局に向かうと、突然、夫のウェイモンド(キー・ホイ・クァン)が豹変し、「世界崩壊の危機が迫っていて、解決できるのは君しかいない」と告げられる…。
上記の『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』のあらすじ自体、何のこっちゃということなのだが、この導入からは思いもしない展開が次々と起こる。マルチバースとは、(ざっくり言うと)自分たちの世界とは別に他の世界が並行して無数に存在するという考えであり、劇中では複数の世界が怒涛のように登場する。
複数のユニバースが登場することは予告編や事前に見聞きしていたレビューから察していたが、いざ本編を見てみると、予想以上にかなり映像の情報量が多く、作品の骨格を理解するのに時間がかかった。バースから別のバースにカチカチ切り替わるたびに、脳が疲労して少し気分が悪くなるほどで、かなりストレスを感じた。目まぐるしく映像が転換するため、「自分はどのバースにいるんだっけ?」と主人公エブリンの気持ちにシンクロしていた。ある意味没入できていたのかもしれないが。
「ストレスを感じた」とは書いたものの、この映画で描かれているテーマ自体には大いに賛同する。無限の可能性=マルチバースがあるとしたら、じゃあ現在のこのユニバースを生きる意味って何なのよ?という話になってくる。人生は選択の連続だし、選択しなおしたい選択は山ほどある。いや、だからこそ…!というメッセージには共感した。
本作でたびたび描かれる「突拍子もないバカなことをすると、それがパワーになり危機を打破する」場面はシュールだが、ピンチの時ほどバカバカしいユーモアやありえないことを実践するのは確かに大事だ。劇中の下品なギャグ以上に、こういった精神性こそ、エブエブと劇場版クレヨンしんちゃんは似ていると思うゾ。
2022年映画ベスト10
2022年に鑑賞した新作映画66本の中から良かったものを10本選びました。ベスト10は以下のとおりです。
#2022年映画ベスト10
— oh (@ok5ok7) 2022年12月29日
①神は見返りを求める
②コーダ あいのうた
③LOVE LIFE
④百花
⑤リコリス・ピザ
⑥ある男
⑦さがす
⑧NOPE
⑨恋は光
⑩わたし達はおとな
ここからは選んだ10本の映画について、コメントというか…自分なりに感じたことを10位から順に書いていきます。
10位 わたし達はおとな 2022年6月11日鑑賞
監督・脚本は劇団「た組」を主宰する加藤拓也。デザインを学ぶ大学生の優実(木竜麻生)は自身の妊娠に気づく。しかし、子供の父親が恋人の直哉(藤原季節)なのかどうか自信が持てず、打ち明けられずにいた…。
本編を見て何にびっくりしたかというと、被写体の人物に対して寄りに寄ったカメラワーク。場面によっては空間の広さや位置関係が分からないほど近寄っていて。かといって、見づらい映像にはなってなくて。その近さは、劇中の登場人物たちがコミュニケーションの距離感を見誤っていることを仄めかしているようで。見たくないものまで見えちゃうような「なんか嫌な感じ」が充満していました。
何も分かり合えていない主人公カップルの二人の口論の緊張感なんかはすごくて。藤原季節が演じる直哉のモラハラ、トーンポリシングの描写が強烈。「その言い方はないでしょ」と本題から少しスライドして、違うポイントで相手を責める責める。ああ、ずるいよなぁ…と。自分が歩まなかった道を見ているようでもあり、いまの若者の言語感覚みたいなものが台詞にも生々しく反映されていて。ハッキリいって気分のいい話ではないのに、映画としては忘れ難い一作になり、ベスト10にギリギリ入れました。
9位 恋は光 2022年6月18日鑑賞
秋★枝の同名コミックを実写映画化。監督・脚本は小林啓一。「恋をしている女性が光って見える」という特異体質の大学生・西条(神尾楓珠)は、恋愛とは無縁の学生生活を送っている。彼は文学少女・東雲(平祐奈)に一目ぼれし、幼なじみの北代(西野七瀬)に相談するが…。
大学生4人の四角関係を中心に、恋の定義や仕組みについて、解き明かそうとするのが真面目というか健気というか。同時期に見た『わたし達はおとな』と比べると、同じ若者の恋愛についての話でも、こっちは比較的ポジティブで、恋愛の開けた可能性を提示しているような気がしました。
コミックが原作ということもあってか、登場する人物の設定や口調自体はリアリティからほど遠いものの、劇中にあるさりげない心情描写や所作の端々に説得力が生まれていて、各キャラクター達の魅力に繋がってるのが良い。特に西野七瀬は全体を俯瞰的に見ていて、いわばツッコミ的なポジションに立っているんですが、そんな彼女が次第に変化していく様子もグッとくる。岡山県でのロケーションや、各人の衣装も素敵。
8位 NOPE 2022年8月27日鑑賞
ジョーダン・ピールの長編監督第3作。空に突如現れた不気味な存在をめぐり、謎の解明のため、OJ(ダニエル・カルーヤ)と妹エメラルド(キキ・パーマー)が動画撮影を試みる…。
『ゲット・アウト』や『アス』と比べて、主人公が対峙するものの種類が決定的に異なるし、その過去2作よりも好きです。奇怪な現象を追いかけている姿を見守っている感覚を覚え、それが怖くもあり、興奮しました。『トップガン:マーヴェリック』が映画館のスクリーンでこそ見るべき映画だ、という声を今年はよく耳にして、自分もそれには賛同するけど、そういう意味ではこの『NOPE』も全然負けてなくて。本作は撮ること、撮られること、そして被写体の尊厳についての映画だと解釈しました。
2022年に見た映画の中で、唯一この『NOPE』だけもう一回見に行ったんですよ。初回鑑賞で見た通常スクリーンの額縁上映は、やはり遠く狭く感じたので、109シネマズ大阪エキスポシティのIMAXレーザーGTでどうしても見たくて。1.43:1のフルサイズIMAXの画角の特徴が活かされていて、上下の関係性が大事な映画だともう一度見直したことで気づきました。
7位 さがす 2022年1月22日鑑賞
片山慎三監督作。「指名手配中の連続殺人犯を見た。捕まえたら懸賞金300万円もらえる」と言って忽然と姿を消した原田智(佐藤二朗)。中学生の娘・楓(伊東蒼)は消えた父の行方を捜し、日雇い作業現場に向かう。そこでは父の名前を語った見知らぬ若い男(清水尋也)が働いていて…。
劇中のあるポイントから、この映画はガラッと様相を一変させるので、本編を見て「うわ、こんな話だったのか」とビックリして、最後まで映画に釘付けになりました。2022年1月に見た時点で、「これは年間ベストに入るかも。いや入れたいな」と思ったほどで。特にドア、ふすま、ガラス等、空間を仕切るものの映し方が特徴的で、それは開けてはいけない何かを示しているようで…。
失踪した父を娘が探す話であるため、親子役の佐藤二朗と伊東蒼の共演場面って、振り返ってみると映画全体では実は少ないんですが、それでも親子の関係性の深さが伝わりましたし、紆余曲折しながらも、最終的にこの親子の話に帰着していくのは良かったですね。『おかえりモネ』で同じ気象班の役どころだった清水尋也と森田望智が、朝ドラとは極端に違う役でガッツリ共演してるのも、マルチバースを覗いているようで変な気持ちになりました。
6位 ある男 2022年11月19日鑑賞
平野啓一郎の同名小説を石川慶監督が映画化。弁護士の城戸(妻夫木聡)は、依頼者・里枝(安藤サクラ)から亡くなった夫・大祐(窪田正孝)の身辺調査をしてほしいという相談を受ける。疎遠になっていた大祐の兄(眞島秀和)が大祐の遺影を見て、全くの別人だと指摘したのだという…。
序盤から里枝(安藤サクラ)にしっかり感情移入したところで、途中から弁護士の城戸(妻夫木聡)の視点にスライドしていくのが非常にスムーズで。彼が初めて登場する場面は飛行機内。外の日光に照らされて機内の窓の日よけを下げる姿が、一方的に外野からラベリングされることを拒んでいるように見えました。この映画は、映像で語ることの魅力が全体に立ち込めているように感じました。そして、「なりすまし」の問題を起点に、やがて「自分とは何者か?」という普遍的な問いに視界が広がっていくのは見事。
眞島秀和演じる大佑の兄のコミュニケーションのとり方を見ていると(例…自分が提供した食事を「うまいっしょ!?」とやや食い気味で聞く)、兄弟間がうまくいかないのもわかるし、「仕事はできるんだろうけど、なんかこの人、嫌だな…」とつい思ってしまう人物造形が印象的でした。小籔千豊が演じる同僚弁護士も、城戸とはタイプの異なる弁護士であるというハッキリとした描き分けがされていて、それがメリハリを生んでいました。また、「怪演」という言葉はこの人のためにあるんじゃないか?という気さえしてくる柄本明の怪演もすごくて。それくらい出てる役者さん全員が良いんですよねホントに。
5位 リコリス・ピザ 2022年7月3日鑑賞
ポール・トーマス・アンダーソン監督が、1970年代のアメリカ、サンフェルナンド・バレーを舞台に描いた青春物語。主人公となるアラナ・ケイン(アラナ・ハイム)とゲイリー・バレンタイン(クーパー・ホフマン)の恋模様が描かれる…。
映画の冒頭にて、アラナとゲイリーの二人の会話の中で「同じことを2回言う」ことについて触れられるんですが、確かにこの映画内では(言葉に限らず)同じことが2回出てきます。その繰り返しの中に独特のリズムが刻まれているようで、心地よさすら感じました。
正直「な、何このエピソード…??」と不思議に思うポイントも多いのだが、かといって全く退屈ではなくて。二人のキャラクターの行動や会話にずっと興味を惹きつけられましたし、何より演出や映像技巧がすごい。二人が過ごす街や空間をカメラがしっかりとらえていて、映画を見るだけであの世界にスッと入れる。これはすごい作品だなと感嘆しました。日本での公開時期は2022年7月でしたが、夏に見るにはピッタリでした。
4位 百花 2022年9月10日鑑賞
川村元気が自身の同名小説を、自ら長編初メガホンをとって映画化。レコード会社に勤める青年・葛西泉(菅田将暉)と、ピアノ教室を営む母・百合子(原田美枝子)。過去のとある出来事により、親子の間には埋まらない溝があった。ある日、百合子が認知症を発症してしまい…。
予告編からルックの良さを感じてはいましたが、本編はその予感や期待を上回る場面ばかりで。雨、川、湖、金魚鉢など水のモチーフが特徴的で美しい映画でした。認知症になった母親から見える景色とその過去の記憶を、多彩な映像演出で映し出している様が綺麗でもあり怖くもあり…。
認知症になった親とその子供の話という点では、(物語も演出も)フロリアン・ゼレールの『ファーザー』を彷彿とさせます。本作『百花』では長回しが多用されていて、「記憶」というテーマと撮影手法が合致しています。長回しで撮られていることで、映画全体に適度な緊張感が漂っており、必然性があると思いました。いつか忘れてしまう日がきても、この映画のことを忘れたくないな。
3位 LOVE LIFE 2022年9月10日鑑賞
矢野顕子の同名楽曲を題材にした、深田晃司監督の最新作。妙子(木村文乃)は再婚した夫の二郎(永山絢斗)、前夫との間の息子・敬太(嶋田鉄太)と日々を過ごしている。とある出来事をきっかけに、失踪していた前夫のパク(砂田アトム)が現れるが…。
この映画について書きたいことは、当時の感想で書いたつもりです。付け加えるとしたら、意外だったのは『百花』と共通点がいくつもあったこと。自分は『LOVE LIFE』とセットで考えていて、どっちも良かったんですが、『LOVE LIFE』の方が刺さって抜けないトゲのような感覚が強くて、こちらを『百花』よりも上位に選びました。
2位 コーダ あいのうた 2022年1月23日鑑賞
2014年製作のフランス映画『エール!』をシアン・ヘダー監督がリメイク。海の町暮らす高校生のルビー(エミリア・ジョーンズ)は家族の中で1人だけ耳が聞こえる。そのため、ルビーは幼い頃から家業の漁業を毎日欠かさず手伝っていた。新学期、彼女は合唱クラブに入部することになり…。
泣きながら見ました。Apple TV +で配信されている国もある中で、日本では劇場公開してくれてありがたい! 歌唱シーンはどれも良く、「音」の演出が素敵で、劇場で見られて良かった。映画として素晴らしくて、それ以上言えることがないくらい。
劇中で、指導する音楽のV先生(エウヘニオ・デルベス)が「時間を無駄にするな」とセカセカしてるんだけど、あれって「自分の時間を大切に」ってことを言ってるんですよね、きっと。特に若いうちの時間はあっという間に過ぎるし、先生自身の経験や後悔によるものなのかなぁ、なんてことも考えました。
1位 神は見返りを求める 2022年6月26日鑑賞
吉田恵輔監督のオリジナル脚本。合コンで出会った、イベント会社に勤める田母神(ムロツヨシ)と、弱小YouTuberのゆりちゃん(岸井ゆきの)。再生回数の少なさに悩むゆりちゃんを不憫に思った田母神は、見返りを求めずに彼女のYouTube動画の撮影を手伝い始めるが…。
吉田恵輔監督の作品は、人の自意識をえぐるのがうまくて、大好きな映画監督の一人なんですが、撮る者も見る者も人の自意識が出やすい「YouTube」を題材にチョイスしたのが、吉田監督らしいなぁと思います。特に劇中の動画の作り込みがすごい。エンドロールにYouTube動画の制作やら監修のクレジットがズラズラ並んでいました。おそらく実際の動画配信関係者に協力してもらったのでしょう。「このテロップの出し方や編集、見たことある…」と既視感を覚えてリアルに感じました。
再生回数が伸び悩む無名Youtuberの女性と、彼女の動画制作を善意で手伝い始める男。この二人の出会いをきっかけに、各自の自意識や承認欲求が暴走して大変なことに発展していきます。この二人の小競り合いだけでも面白いんですが、そんな二人の間をフワフワ漂う梅川(若葉竜也)のテキトー具合が最悪で最高。コミュケーションのすれ違いのもどかしさや、人が一線を越える瞬間の緊張感もあり、これぞ吉田恵輔監督作!!!といえる内容で、今作も怖くて面白かったです。この映画が内包している爆発力のようなものは今年見た映画の中で一番で、ベスト1位に選びました。
ということで、2022年のベスト10は以上となります。では、このあたりで2022年を戸締まりさせていただきます。
演じる男を演じること:『宮松と山下』について
約1年前、ある映画の撮影にボランティアエキストラとして3日ほど参加した。映画が好きでいろいろ見続けているが「映画の撮影現場ってしっかり見たことないよな、覗いてみたいよな」と唐突に思い立ち、たまたまTwitterで見つけた告知から応募して参加した。現場では、エキストラ参加自体が趣味という人、出演俳優のファン、役者の卵など、いろんな属性の人たちが参加していた。さっきまで一緒にロケ弁を食べたり、「どこからきたんですか」みたいな雑談をしていた人同士が、指定の配置に付いて「ヨーイ」と合図がかかると、フッと見物客になりきって映画の一部と化した瞬間がとてもシュールだったことを覚えている。
2022年11月18日に公開された映画『宮松と山下』を見た。主人公である宮松(香川照之)は、(ボランティアではない)エキストラ俳優だ。エキストラだけでは食っていけないため、ロープウェイの仕事を掛け持ちしながら、映画やドラマの名もなき端役として出演し続けている。実は宮松は記憶喪失のため過去の記憶が欠落している。そんな宮松の前にかつての同僚だという男(尾美としのり)が現れる…。
序盤、瓦屋根が立ち並ぶカットが印象的だ。一つ一つの瓦が組み合わさり、大きな屋根が形成されている。その一連のカットで、その瓦屋根は時代劇のセットの一部であることがわかる。その瓦はまるでエキストラによって映画が成り立っていることを示唆しているようで、初っ端からその映像だけで何かを物語ろうとしている。
近年、けたたましい演技をすっかりものにした香川照之は、『宮松と山下』では2000年代の香川照之を彷彿とさせる演技のトーンに回帰している。なんなら『ゆれる』や『トウキョウソナタ』での香川照之を連想した。しょぼくれたような印象とともに、どこかミステリアスなムードをまとっている。あまり多くを語りすぎないこの映画の温度に合っている。主人公の宮松がエキストラ俳優という設定もあり、本作は、何が虚構か、何が現実かわからない仕掛けが施されており、「これはどっちなんだろ?」と考えながらスクリーンを凝視した。
演じるということは、主役に限らず台詞がないエキストラでさえも、違う自分になれる。今の自分を一旦遮断することができる。そして、出番が終わると、役から離れて素の自分に戻る。宮松がエキストラを演じ続けているのは、別の自分になりたいという思いをどこかで抱えているからだろう。本作での香川照之は、エキストラとして演じる男を演じており、ある意味、二重の演技をしている。
人は一面では語れない、わからないということも見えてくる。宮松だけでなく、過去の宮松を知る周囲の人物達も、また多面的だ。宮松は自分でも覚えていない自分の痕跡をたどっていき、自分も知らない自分の過去を知っていく過程が興味深い。スッキリしない後味ではあるが、このスッキリしなさは嫌いではなかった。
黙秘る(だまる):『沈黙のパレード』について
とある町で女子学生が行方不明となり、数年後に遺体となって発見された。かつて草薙(北村一輝)が担当した別の事件で無罪になった蓮沼(村上淳)が容疑者として浮上。だが、今回も証拠不十分で釈放されてしまう。行き詰まった事件について、内海(柴咲コウ)は湯川(福山雅治)に相談しようとするが、湯川も偶然その町に来ていて…。
『ガリレオ』シリーズといえば、東野圭吾の推理小説シリーズを映像化したプロジェクト。2007年から連続テレビドラマや映画が複数制作されている。一連のシリーズが始動してから約15年経つが、実際の稼働スパンはかなり空いており、今回の映画『沈黙のパレード』は9年ぶりの新作だ。
テレビドラマ版では、湯川が事件の真相に気づき始めると、ところ構わず数式を書き殴るのがお約束。事件のトリックを科学的に実証しながら、(基本的には)1話完結型の謎解きミステリーとしてテンポよく楽しませる。
一方、劇場版ではテレビドラマ版のフォーマットとは大きく異なり、抑制されたトーンで撮られており、終始、落ち着いた映像演出によって語られる。湯川が派手に数式を書き殴ることはなく、事件関係者の人物の内面についてガッツリ深く掘り下げられている。湯川が得意とする「理性」や「論理」だけでは通用しない、事件に関係する人々の「感情」や「人情」にぶつかることになる。それだけに1話完結型のテレビドラマ版に比べるとやや渋い後味が残るのが劇場版の特徴だ。
で、今回の『沈黙のパレード』はどうだったかというと、テレビドラマ版のテイストにかなり寄せているな、というのが率直な印象。テレビドラマ版でおなじみだったサウンドトラックの曲が、本作では複数曲使用されているし、今回のトリックの種明かしの演出は、映画のそれというよりも、わかりやすさを優先したテレビ番組的な演出のように感じられる。よって『容疑者xの献身』『真夏の方程式』のようなトーンの作品を期待すると、肩透かしを食らうことになる。
今回の事件には、人の思いが複数に折り重なっていて、展開も二転三転するし、やはり「人情」が前面に出てくる。「理」によって事件を解き明かそうとしている湯川が「情」と対峙する。秘密を胸の奥に隠し続けることのキツさ、黙秘を続けることの重さについて問いかける。『容疑者xの献身』『真夏の方程式』での苦い事件を経たことを踏まえると、湯川が今回の事件に向き合うことに深みが出てくる。
西谷弘監督による手堅い演出は健在で、実在する「あの曲」を何度もリフレインさせる演出は、事件の被害者となった少女・佐織(川床明日香)の存在が町の人にとってどういうものかを語るうえで効果的だった。また、本作の主題歌となっているKOH+の『ヒトツボシ』も、「あの曲」とうっすらリンクしているように聴こえた。